高山植物について調査を行い世界的に有名なキク科のエーデルワイスの仲間であるチシマウスユキソウ(Leontopodium kurilence Takeda)とシコタントリカブト(Aconitum kurilense Takeda)の名前を命名した人として武田久吉は、知られています。

 

プラントハンターになるまで

 

武田久吉は、明治16年に東京でアーネスト・サトウの2番目の息子として生まれました。中学生5年生の時にキヨスミコケシノブを日光の植物園でみたのがキッカケになって、植物学者牧野富太郎と面会します。その後、明治43年になるとイギリスへ留学します。王立キュー植物園で植物学関連の研究を始め、バーミンガム大学の上級過程を卒業し、王立キュー植物園で研究をして日本へ帰国します。その年に武田久吉は理学博士号を授与しました。

 

プラントハンターとして

 

武田久吉は王立キュー植物園でおこなった研究などの関係でイギリスのハイランド地方で、植物の調査をしたこともあり武田久吉は高山植物を専門としたプラントハンターになったと言われています。そんなプラントハンターの活動を色丹島で行ったとき、顕花植物とシダ植物の調査で記録し、報告した中にあったエーデルワイスの仲間であるチシマウスユキソウ(Leontopodium kurilence Takeda)とシコタントリカブト(Aconitum kurilense Takeda)に命名を行いました。そしてその名称は現在まで使用されているようです。また高山植物専門のプラントハンターになったことが理由になったのかは定かではありませんが武田久吉は、日本山岳の創立に勤め会長職を勤めたり、登山が好きで登山に関する本も執筆したりと登山に関しても強い思い入れがあったようです。

 

 

講師として

 

武田久吉はプラントハンターであり、大学などの講師でした。武田久吉が教鞭をとったのは大正5年に京都大学臨湖実験の講師を勤め、大正9年に北大水産専門部講師、昭和3年から14年までとう京都農業大学農学部林学科講師を勤め晩年は帝国大学の講師を行っていたようです。

 

 

プラントハンターの父

 

プラントハンターでもあり植物学者でもあり、教師でもあった武田久吉の父であるアーネスト・サトウもプラントハンターでした。しかし、父のアーネスト・サトウはプラントハンターがメインではなく、外交官がメインで日本語が非常に流暢だったようです。そんな彼は明治時代の外交官としては非常に有名ですが、イギリス風の篤実、重厚な植物研究の種子を日本に残した功績はあまり知られていないようです。アーネスト・サトウは日本での外交の後他国へ外交官として行き、最後には英国に帰りましたが、武田久吉をはじめとした家族とは連絡を取っており、武田久吉が植物に興味を持ったことや語学に興味を持ったこと、登山などに対して興味を持ったのは父であるアーネスト・サトウの存在があったからのようです。

 

 

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