プラントハンターの歴史や植物学の歴史などを学んでいたり、それらに関する本を読んでいたりすると必ずといっていいほど耳にする「チューリップバブル」という言葉を耳にします。「チューリップバブル」とは一体何なのかについて紹介していきます。

 

国外の植物への憧れ

 

16世紀ごろのヨーロッパの庭などには現在のように南国や東洋の植物はなく、タチアオイ、ニオイアセライトス、ストック、カーネーション、スミレ、キバナノクリンザクラ、マリーゴールドなどの草花が一般的であった。そのためアジアの植物は大変珍しく、ヒマワリや球根のアヤメやダリア、中東のトルコのチューリップなどの花々も大変珍しいものでした。この時期に貴族などの富裕層の中で庭園を作ることが人気の娯楽の1つとなり、植物採集や植物の研究を行うもの達は新米薬剤師と同等の扱いを受けていたとされ、社会的に地位が低かったのですが、趣味庭園の人気が高まるにつれて草花に関わる職業を行なっている人々の状況がガラリと変わりました。

 

 

オスマン帝国とチューリップ

 

神聖ローマ帝国の大使としてオスマン帝国の皇帝スレイマン大帝に支えていた時に薬草学者オージェ・ギスラン・ド・ブスベックはチューリップと初めて出会い、チューリップのタネと球根をウィーンの皇帝植物園に提供したことが初めてチューリップがヨーロッパに来たことと言われています。オスマン帝国をはじめとした野生種が育つ地域の人々はチューリップの魅力の虜で装飾品などにチューリップの絵を描き、詩人はチューリップの詩を綴りました。そんな魅力溢れるチューリップがヨーロッパの人々を魅了しないわけがありませんでした。

 

チューリップバブル期

 

チューリップのタネと球根をウィーンの皇帝植物園に提供し、カルロス・クルシウスがチューリップ栽培を初めて、チューリップに関する研究が始まり、チューリップの色や形に加えて開花時期を「早生」「中生」「晩生」に分類するなどしてその特徴などにも解説したチューリップに関する専門書「希少植物(Rariorum Plantarum Historiaka)」を出版しました。そしてチューリップの美しさや、色や形が豊富かつ地味な花から多彩な花まで咲く「ブロークン」という色の変化などの魅力にオランダの人々は魅了されていきました。そんなブロークン・チューリップの人気は高まるようになり、チューリップ栽培が儲かることを知った人々はチューリップの種苗会社を次々と企業し、1年もの間でチューリップの球根には以前の2倍もの値段がつけられるようになり、市場では高級住宅を購入してもお釣りが返ってくるぐらいの高値がつけられたこともあったようです。しかし、1637年に買い手より売り手が増えチューリップの市場が崩壊たことなどもあり、「チューリップ・バブル」は弾けて終わりました。

 

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