Foxcatcher(フォックスキャッチャー)という映画のモデルとなり、殺人で有罪判決を受けた人物としても有名なジョン・エルテール・デュポン。そんな彼がプラントハンターでもあったことを皆さんはご存知でしょうか。

 

コーチ・スポーツ支援者の顔だけでなく貝類・鳥類学者、切手収集家でもあり、デュポン財閥の資産相続人の1人でもあったジョン・エルテール・デュポンについて紹介していきます。

 

ジョン・エルテール・デュポンの生まれ

ジョン・エルテール・デュポン(John Eleuthère du Pont)は、アメリカのペンシルバニア州のフィアデルフィアで4人兄弟の末っ子として19381122日に生まれました。

 

父と母の家族はヨーロッパからアメリカに移住してきて、1800年に銃器用の粉末の化学と製造をおこなう会社を設立させます。その後、事業は大成し、デュポン家は実業一家として繁栄していきます。

 

そしてジョン・エルテール・デュポンは、ミリオネラーが名前を連ねる雑誌フォーブスで、アメリカの裕福な400人に選ばれおり、デュポン家はアメリカで最も裕福な家としても数えられています。

 

プラントハンターへの道

1957年にジョン・エルテール・デュポンはハーバーフォード校を卒業すると、ペンシルバニア大学に入学し、1年生を終える前に退学しました。その後はフロリダ州マイアミの大学に通い、科学者オスカー・T・オウアーの指導を受け研究に従事することになります。そして動物学の理学士号を1965年に取得し、マイアミ大学を卒業します。その後彼は、ヴィッラノヴァ大学にて自然科学の博士号を1973年に取得します。

 

プラントハンターでもあり貝類・鳥類学者でもあったジョン・エルテール・デュポン。そんな彼が貝殻・鳥・鳥の卵の豊富なコレクションを持つ博物館を作ります。

 

デラウェア自然史博物館

 

デラウェア自然史博物館(Delaware Museum of Natural History)1957年にデラウェア州に設立されました。1910年以降にオープンした最初の自然史の主要な博物館といわれています。

 

博物館の目玉となるコレクションは、実際にジョン・エルテール・デュポンが集めたもので、貝殻、鳥、鳥の卵などのコレクションが充実していました。

 

デラウェア博物館のためにジョン・エルテール・デュポンの叔父であるヘンリーフランシスデュポンは、デラウェア州ブランディワイン渓谷のヴィンタートゥール邸の向かいに土地を提供しました。そして1972年にオープンした博物館には、200人近くのデュポンの家族と、他の北東部の自然史博物館の代表者が参加しましたといわれています。

 

長年自然科学者としてフィールドワークをおこなっていたジョン・エルテール・デュポンはデラウェア自然史博物館の経営・ディレクター業などをこなしていきます。

 

こちらのデラウェア自然史博物館は、北アメリカで2番目に大きいコレクションを持ちデラウェア州で最も古い自然史博物館です。

 

フィールドワーク

 

ジョン・エルテール・デュポンは、マイアミの大学で1965年に自然科学の博士号を取得して鳥に関する本を執筆する前から、自然史博物館の開発に興味を持っていました。

 

大学院中および大学院後、デュポンは南太平洋とフィリピンでいくつかの科学探検に参加しました。その科学探検では2ダースの鳥の亜種の発見が認められています。

 

そしてジョン・エルテール・デュポンは、主にフィリピン、サモア、フィジーをフィールドワークの拠点として活動をおこなっています。そのフィールドワークの結果、フィリピンの鳥(1971Philippine Birdsを発売して以来、さまざまな鳥類の本をジョン・エルテール・デュポンは書いていきます。

 

また現存するフィリピンの鳥に関する多くの論文も書いています。また、フィリピンから来たメキシコにいる鳥とオウムは、ジョン・エルテール・デュポンが最初に記録した鳥といわれており、彼の名前が使われています。

 

 

ジョン・エルテール・デュポンの書籍

下記ジョン・エルテール・デュポンが執筆した書籍になります。

 

・フィリピンの鳥(1971Philippine Birds

  • 南太平洋の鳥(1976South Pacific Birds
  • リビング渦巻き:最近のモノグラフ世界のVolutidae

 

ジョン・エルテール・デュポンのその後

 

デラウェア自然史博物館を建てるなど、プラントハンター・鳥類科学者としての一面も持っていたジョン・エルテール・デュポンですが、多くの人はスポーツ愛好家・レスリングコーチとしての印象の方が強いのではないでしょうか。

 

その理由として1980年代、ジョン・エルテール・デュポンはデラウェア自然史博物館を建てた後にスポーツと五種競技のイベントに興味を持ち始め、フォックスキャッチャーファームにレスリング施設を設立したことが挙げられます。

 

そして彼はアメリカのアマチュアスポーツの著名なサポーターになり、USAレスリングのスポンサーにもなりました。

 

しかし順風満帆かと思われた人生が急激に繰り始めます。

 

1996126日に知人であったデイヴ・シュルツをデュポンは射殺します。この話は大変有名でFoxcatcher(フォックスキャッチャー)というアカデミー賞にもノミネートされている映画にもなっている程です。

 

プラントハンターでもあり貝類・鳥類学者でもあったジョン・エルテール・デュポンはその後逮捕され、獄中内にて2010129日に病気により亡くなりました。

 

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